小学校5年生の小旅行で鞆港から連絡船で尾道に行った。初めて海上から阿伏兎観音を拝観した。尾道に上陸すると港祭で賑やかな大通りに「桂馬」を模した看板が歩ていた。
なにの宣伝なのか判らないまま千光寺に登り夜になると輝くと言う珠を見学し散策しミカン水を呑み休憩した。
戦前の福山では誠之館の生徒は一年生から大人と同じ扱いをする風潮があった。二本線の入った学帽を被り、革の編上靴を履き歩きながら、
英単語などを覚えている姿、汽車通の者は腕時計をはめていた。
同年代の者の羨望の的であった。
昭和15年入学の尾道グループの先頭は「桂馬」の二代目と後年東大へ進学したT君の2人は体より大きい背嚢を背負って胸を張って歩いていると、カバンが歩いていると失笑する者がいたが将来を期待する者が多かった。
上級生には政治評論家の藤原弘達も同じ様に先頭組だったとの事だ。入学前より食糧事情が悪く、時々「桂馬」から持参する竹串のさした蒲鉾は有名だった。
私は卒業する迄一回も同じ組になれなかったので恩恵を受けることがなかった。
「桂馬」の創業時に明治の文豪志賀直哉は千光寺山の中腹にある棟割長屋に寄寓していた。
父親との不仲、白樺派の対立などで、頑なになっていた時代、小説「暗夜行路」に登場するのが「隣のマツ」直哉の心を癒したことである。
「まつさん」は初代の村上桂造の祖母である。おとなしい親切な婦人だったと思はれる。桂造の桂と生れ年の午=馬を組み合せた「桂馬」の屋号が出来上って100年、今では県を代表する物産となった。 |