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志賀直哉先生と桂馬初代村上桂造~濱瓢箪について

初代・村上桂造が桂馬商店を創業した大正初期、尾道では、浜問屋の旦那衆の道楽から始まる瓢箪集めが町中に広まり、瓢箪のない家が無いといわれるほどでした。本通りでは瓢箪が商われ、瓢箪の品評会をお寺(光明寺)で行われるまでに大流行していました。

昔から「瓢箪から駒」ということわざが生まれたように吉運を呼ぶ縁起ものとして、人々に親しまれていましたが、昔から商いの盛んだった尾道では、商売繁盛の縁起ものとして特に重宝されていたのでしょうか。

当時の尾道は、開港以来三回目の繁栄を迎え、海と陸をつなぐ一大拠点として、人と物が休む間もなく行き交っていました。現在の桂馬商店駐車場には魚市場があり、正面には、尾道石工が造った石積みの雁木(干満差に対応した階段状の船着き場・雁が飛んでいるようにみえる様から雁木と名付けられた。)があり、そこから水揚げされた新鮮な魚たちを大八車で、桂馬商店横の石畳小路を駆け上って方々へ運んでいました。

同じ頃、尾道に滞在していた小説の神様・志賀直哉先生が瓢箪に熱狂する尾道の人々の様子に大変ご興味を持たれ、自分でも瓢箪を三つ購入し、四国に渡る船上で聞いた瓢箪話などをもとにイメージを膨らませ、短編小説「清兵衛と瓢箪」を執筆されました。

志賀直哉先生は1912年(大正元年)29歳のとき、この先小説家として食べていこうとの一大決心を父親に反対され、そのまま家を出、11月10日深夜に尾道駅に降り立ちます。
その後、千光寺中腹の三軒長屋の六畳・三畳の二間を借りて住むことを決めました。それまでの実家暮らしだった東京生活とは違い、慣れない一人暮らしに苦心していたところ、食事・洗濯や身の回りのお世話を焼いたのが、隣に住む小林マツ(当時53歳)でした。このマツが桂馬の初代村上桂造の祖母にあたります。桂造が時折、祖母のところに訪ねていた際、志賀先生と出会い、その後も親しくさせていただくこととなります。


志賀先生が東京に戻られた後も渋谷常盤松の志賀邸へ蒲鉾包みを両手に携え、たびたびお届けにあがりました。喜ばれた先生からは、ご自身の写真や書籍を頂戴し、長くご縁を紡ぎました。

今夏、弊社では新たに夏の御重・「濱瓢箪」をご用意いたしました。
中にお詰めする新登場の地海老寄せ夏しんじょとはも皮夏しんじょは、先に触れた尾道水道の雁木と石畳小路の様子をイメージして御作りいたしました。


弊社が創業した大正二年(1913年)から110年目を迎え、志賀直哉先生の生誕140年にもあたる本年、創業時の初代村上桂造の思い、往時から続く志賀先生との大切なご縁や此地の遠近の軒先に吊るされ、町を賑わせていたであろう瓢箪たちにも深く心を馳せ、また皆様にも御愉しみいただければ幸いです。

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